牡蠣の認知
人間世界では、子供の「認知」を法律に基づいて行う。
民法第779条に「嫡出でない子は、その父又は母がこれを認知することができる」とある。
「認知」とは、子供の母親と法律上の婚姻関係にない男性が、子供との間に法律上の父子関係を発生させるために必要な法的行為であって、扶養の義務や相続権など重要な法律上の関係が発生するもので、管轄地域の市区町村役所への届出によって効力を発生する。
これが国際的な場合はどうなるか。日本人と外国人との間で生まれた子供を認知するとは、子供が日本国籍を取得できるかということであり、その場合はケースごとに分かれる。
■母親が日本人の場合
婚姻の有無に関係なく国籍取得
■父親が日本人の場合
1.法的に婚姻をした後に出生した場合⇒国籍取得
2.法的に婚姻をしていない時に出生⇒国籍取得不可⇒法的に婚姻して認知⇒国籍取得
3.法的に婚姻をしていない時に妊娠・出生前の胎児認知⇒国籍取得
4.法的に婚姻をしていない時に出生⇒生まれた後に父親認知⇒国籍取得不可
となるが、4のケースでも後に日本帰化申請により取得可能となる。
このように人間の子供の「認知」は定められた法律によって行われる。しかし、牡蠣の国籍変更については法律がない。現在、牡蠣業界で話題となっているのは、「ポルトガル牡蠣Crassostrea angulata」がポルトガルで出生したのではなく、台湾原産の牡蠣がポルトガルに渡って育ったのだ、という主張が台湾からなされ、その根拠としてDNA鑑定結果が提出されたことである。
また、牡蠣業界でもポルトガル牡蠣の出生地は台湾海域であることが、概ねのコンセンサスとして受け入れられているのが実態となっている。だが、未だに国籍変更が正式になされていない。今回の世界牡蠣面白物語では「ポルトガル牡蠣の国籍変更をどのように?」をテーマに検討し、その解決方法を新たに提案したいと考える。
検討の進め方としては
1. 一般的に認識されている「ポルトガル牡蠣」
2. 台湾からの主張
3. ポルトガルの主張
4. 大航海時代とは
5. 牡蠣業界での現状コンセンサス
6. 国籍変更への方法
によって進めていきたい。
1. 一般的に認識されている「ポルトガル牡蠣」
現在の牡蠣分類
2003年に社団法人日本水産資源保護協会が作成した「わが国の水産業・かき」では、以下の通り牡蠣が分類されている。
左表のように「ポルトガル牡蠣」の産地はポルトガル、フランス、スペインとある。日本原産の「マガキCrassostrea gigas」は「日本、韓国、カナダ、アメリカなど」と記載されている。因みにマガキのgigasとは「巨大」を意味し、ポルトガル牡蠣のangulatusとは「矮小」という意味をもつ。
ところで、牡蠣という生物が生きる海域は、南北両極地方を除く北緯64度~南緯44度までの、海の潮間帯から水深50m以上までで、高塩分の外洋域から極めて低塩分の河口や内域湾までの非常に広い範囲にわたって生息している。
したがって、生息能力の高いマガキは、ヨーロッパ各国を含め世界中で養殖されているように、日本のマガキが世界を制したと言っても過言でないが、いずれの国でも原産地が日本であると「認知」されているので、マガキに関して出生地に関わる問題はない。
ところが、既に述べたように「ポルトガル牡蠣」は、台湾海域が原産地であるという主張が台湾からなされている。
「ポルトガル牡蠣」とは
まず、最初に「ポルトガル牡蠣」が世に顕れ、知られた存在になったプロセスを見てみたい。(参照『フランスを救った日本の牡蠣』山本紀久雄著 2003年)
「もともとフランスにはヒラガキが天然牡蠣として大量に生存していた。しかし、王が積極的に頭に効く、精力が出る、というような理由で大量に食べるということは、牡蠣需要の増加につながったと考えられる。なぜなら、他の貴族や上級階級の人間もたくさん食べたであろうからである。
それが、当時の天然ヒラガキの乱獲につながり、天然牡蠣床の減少という状況になっていったことは、容易に予測がつく。これが18世紀の半ばから、19世紀の半ばまでの状況だった。そしてとうとう、天然の牡蠣の絶滅を防ぐために、外国の牡蠣を輸入することが決定されるということになった。
ポルトガルからポルトガル牡蠣を輸入し始めた。まず、輸入した場所はアルカッションである。そのアルカッションで、ある事件が発生した。1868年のこと。ポルトガル牡蠣を積んだ船が台風に巻き込まれたのである。船長のエクトール・パルテレミー・パトワールは、ジロンド河口に船を避難させたが、避難が長期間にわたり、牡蠣が腐り始めたので、管轄しているボルドー港の責任者が、船長に沖合いに牡蠣を捨てるよう命じた。
その命令により、船長は牡蠣を捨てようと沖合いに出ようとしたが、十分に沖合いに出る前に、つまり、沖合いに出ることを怠って、アルカッション湾の途中の海域で捨ててしまった。その沖合いに出る前の海域で捨てられて牡蠣の中で、生き残った牡蠣があって、それがアルカッションで繁殖し始めた。
牡蠣は環境に順応する能力が高いので、すぐにアルカッション海域になじみ、生存を始めたのである。これがポルトガル牡蠣がフランスに生息し始めた経緯である。さて、アルカッションに生息し始めたポルトガル牡蠣は、フランスのヒラガキとともに養殖されだしたのだが、1893年にヒラガキに病気が始まり、その原因が解明できずにいたところ、1920年から1921年になって、急にヒラガキは減少し始めるという事態になってしまった。
加えて、その後の1967年にいたって、今度はポルトガル牡蠣が病気になってしまった。栄養を摂取することが妨げられる状態になり、さらに、えらの破壊という病気になってしまった」以上の記述は、ポルトガル牡蠣はポルトガルが原産地であるという前提で書かれていて、原産地について疑問を持っていない。
「NOAA米国海洋大気圏局」レポート
「ポルトガル牡蠣」の理解には「NOAA米国海洋大気圏局」(National Oceanic and Atmospheric Administration)によって1997年に出された「Technical Report NMFS 129」の「ポルトガルにおける主要な二枚貝類の漁業及び養殖業」が参考になる。
報告者は「ポルトガル海洋研究所水産養殖部Instituto Portugues de Investigação Maritima (IPIMAR)」のフランシスコ ダシス ロペス ルアノ氏FRANCISCO D'ASSIS LOPES RUANOである。
① 「要約」
「ポルトガル人は牡蠣と他の二枚貝類を古代から食用していた。市場に出ている主要な牡蠣はフラットオイスター(Ostrea edulis)とポルトガルオイスター(Crassostrea angulata)の二種類である。1900年以来フラットオイスターは減少し、ポルトガルオイスターがそれに置き換わり、更に最近は二枚貝が普及するようになった。牡蠣産業の衰退の原因は汚染である。1950年代に牡蠣の養殖が開始され生産高は1964年には1万トンにまで増大した。2千人のフルタイムの従業員と、その他1万人のパート従業員が1年の8~9ヶ月間牡蠣の養殖に従事した。それ以降生産高は減少し、現在の年間生産高は150トンである」
②「序論」
「古代から貝類、軟体類の収穫はポルトガル人の生活にとって重要なものであった。850キロメートルに及ぶポルトガルの海岸線ではたくさんの多様目的のボートが数種の貝類を収穫した」
③ 「漁業の歴史」の記述。
「ポルトガルでは牡蠣や他の二枚貝は古代からの食料となっていた。ポルトガル沿岸の先史時代の遺跡では数種類の貝類(主に牡蠣)、骨、陶器、木炭で構成された貝の付着物が発見された。付着物はコンチェイロスconcheirosと呼ばれ、タホ川Tejo(テージョ川)河口 やサド川Sado河口 、又はアルガルヴェ地方Algarve で発見され、これらは紀元前9世紀頃のものと見られている。
およそ紀元前140年から西暦400年のローマ帝国支配時代に、ポルトガルで牡蠣は重要な食料であった。牡蠣の食用は既に中東では恐らく普及しており、その後ポルトガルを含むローマ帝国の他の地域に広まったと考えられる。ローマ人は主にタホ川とサド川の二カ所の河口の自然底から牡蠣を集めた。サド川河口ではセトゥーバルCetobriga(Setúbal)というローマ時代の都市の遺跡が今日も存在する。その中には魚の塩漬け用タンク等もあり、サド川河口が漁業、塩の生産、魚の加工、恐らくは牡蠣業の中心地だったことを示している。これらの製品は他のローマ帝国の区域へ送られた。
牡蠣や他の二枚貝は沿岸のコミュニティーにとって重要なものであった。例えば1682年に北部の地元漁師のリクエストに応じて自然床の貝を保護する特別な法律が通過した。二枚貝は人々にとって主な食料であるとともに、多くの雇用を提供したからである。牡蠣の高い栄養価に関しても数世紀前に認識され、1731年にポルトガル人外科医であるフランシスコ・F.エンリケス氏は幾つかの疾患の治療法として牡蠣を食べる効用について述べている。
19世紀に入っても牡蠣は引き続き重要な食料であり、海岸沿いの幾つかの市場で売られるようになった。1867年にはある私営企業が、タホ川河口南部の牡蠣の豊富な広い国有地を政府からリースする契約を結んだ。
この企業は以下の条件を受け入れた:1)広大な牡蠣の自然底を保護する。2)適した区域で新たな牡蠣を増やす。3)輸出に適するように牡蠣の品質を向上し、肥やすような方法を開発する。
ニューヨークのコロンビア大学生物学教授であるバッシュフォード・ディーン氏 (Bashford Dean)は、1891年のポルトガル訪問の際にリスボン近郊の牡蠣についてこのように述べた。『リスボンの港は幅が1マイル以上、全長6マイルのミニチュア海にある。 この海ではリスボンと反対側に位置する南部沿岸が牡蠣の宝庫となっている。(中略)ここで獲れる牡蠣はリスボンの市場を飾るだけでなく、重要な輸出品となっている。』この時期にはタホ川河口での牡蠣の養殖は存在しなかった。また、牡蠣の品質は乏しく、ほぼ全ての牡蠣はフランスや英国へ輸出され、そこで質が向上するまで更に養殖された後、初めて市場へ出荷された。
1860年代に自然床の牡蠣の品質を向上する法令が定められたが、養殖は20世紀半ばまで実際行われなかった。1868年に自然環境の牡蠣の収穫を規制する法案が通過した。それはこれらの内容を含んだものだった。1)牡蠣は4月1日から9月31日までの産卵期は収穫してはならない。2)収穫可能な牡蠣のサイズは最低5センチである。3)潮間帯の牡蠣の収穫方法は手法に限られる」
この記述からわかるのは「紀元前140年から西暦400年のローマ帝国支配時代」から牡蠣が食べられていたという事実である。
④「貝類の収穫と養殖」の記述。
「Nobre氏(1940)とVilela氏 (1975)によるとポルトガル沿岸には四種類の牡蠣が生息する。フラット・オイスター、ポルトガル・オイスター、ストーンオイスター(Ostrea stentina)、そしてO. cochlearである。しかし商業的価値が高いのは初めの二つの牡蠣に限られる。1900年以降フラット・オイスターの重要性が低下し、その後数十年間ポルトガル・オイスターが、更に近年は二枚貝がそれに置き換わった。最近ではタホ川やサド川河口の間に位置するアルブフェイラ湖の自然床や、南部沿岸のラグーン以外では、沿岸部でのフラットオイスターは比較的まれである。牡蠣の生産は南部沿岸の延縄式に限られている。
ポルトガルオイスターはほぼ全ての弱塩水の河口、ラグーン、リアス付近で繁殖した。それは潮間帯と下干潮帯から運河の最も深い部分(10メートル)まで、また河口から上流に数キロメートルにわたる地域にまで分布する。ポルトガルオイスターは砂、土砂、沈泥、貝殻の基質上にも生息する。この牡蠣は冬の大雨の後の2~6%という低塩度にも耐えられ、広範囲の塩度に順応することができる。1、2ヶ月の降雨の後、河口上部の大量の牡蠣は浸透圧調節の不機能のため俗に言う“淡水の浮腫”という問題にさらされる。
これに対して、夏期は河口付近の川やラグーン内では塩度が35%から38%まで上昇するが、これに対するポルトガルオイスターへの明らかな影響はない。生息地での気温範囲は冬の北部の海では最低8-10度、夏の南部ラグーンでは20-30度程である。
雨季には大きな河口での水は大量の沈泥を含む。水は凝結し、着床した牡蠣に付着し、牡蠣の貝は泥で膨らんだようになる。また牡蠣の卵の致死率も高くなる。牡蠣の主な捕食者は数種類の蟹(特にグリーンクラブ、Carcinus maenas )、巻貝類、ヒトデ、海鳥である。牡蠣の幼生はクラゲに食べられることもある。
ポルトガルオイスターは過去には特にタホ川、サド川、モンデゴ川、ミラ川、グアディアナ川の河口付近で豊富であった。更に西海岸のアルブフェイラ、オビドス、アヴェイロのラグーンや、南部のアルボールやファロ、オリョンラグーンでも多く生息した。その中でも最も牡蠣に適した地域はタホ川河口である。
現在ポルトガルオイスターの自然床はサド川河口上流部やその他数箇所深海の床に限られ、全体で200-300ヘクタールまで減少した」この記述はポルトガル牡蠣が、ポルトガル各地で豊富に存在したことを示している。
「ポルトガル牡蠣」の名付け親
以上のようにNOAAレポートは、ポルトガル牡蠣が昔からポルトガル海域に存在したことを述べていて、ポルトガルが原産地であるという前提で記述されている。では、このポルトガル牡蠣と名づけたのは誰なのだろうか。
それは動物哲学や無脊椎動物誌を著した、フランスの著名な博物学者ジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ、シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744―1829)、ブルボン朝から復古王政にかけての19世紀の著名な博物学者であり、biology(生物学)という語を、現代の意味で初めて使った人物の一人である。
このラマルクが1819年に無脊椎動物誌第6巻第1号、198頁に、ポルトガル・リスボン湾内の干潟で得られた極めて稀な未記載の牡蠣に対しGryphaea Angulata Lamarckの学名を与えた(一般名はGryphéé anguleuse "角のあるグライフェア”)。
この牡蠣の学名についてはその後、デシェイス(Deshayes、1831)はOstrea angulata,コリンガ(Korringa、1956)はCrassostrea angulata(一般名ポルトガル牡蠣Portuguese Oyster)と称し現在に至って、世界的にポルトガル牡蠣として定着している。
2.台湾からの主張
この「ポルトガル牡蠣」原産地がポルトガルであるという見解に異論を唱えたのは台湾である。
2011年1月、台北から車でキールン基隆に向かった。渋滞なく1時間もかからず基隆の行政院農業委員会水産試験所に到着した。早速、同試験所の海洋漁業組・研究助理の蕭聖代Sheng-Tai Hsiaoさんと会う。彼女がポルトガル牡蠣の原産地に異論を唱えているのである。因みに名前の蕭は日本語で「しょう」とも「よもぎ」とも読むが、その蕭聖代女史は眼鏡かけた明るい女性である。
蕭聖代女史が以下のように語った。今まで学会・牡蠣関係者の間では、台湾の牡蠣は日本のマガキに形がそっくりなので、日本のマガキと思い込んでいた。しかし、一方マガキのように大きくならないのがおかしいと不思議にも思っていたところ、1998年に学会誌のレポートで台湾の牡蠣はホルトガル牡蠣だという資料が発表され、学名Crassostrea angulataであることがわかった。
それ以後、再びそのままになっていたが、蕭聖代女史が2008年に調べ始めた。その理由は、中国から密輸牡蠣が入って来て、その取り調べと、密輸入牡蠣の種類を探査することとの必要性から、地元の台湾牡蠣をDNA分析してみた。そうすると何とポルトガル牡蠣と合致した。そこで、その結果を2009年11月に台北で開催された「第三回インターナショナル牡蠣シンポジウム」で蕭聖代女史が発表した。
その論文を翻訳したものが以下である。
「必ずや名を正さんか」(ぜひとも名前を正すぞ、の意味で論語の一節)
ポルトガル牡蠣(Portuguese oyster)と太平洋牡蠣(Pacific oyster 日本のマガキ)について
著作者 荘世昌、蕭聖代、呉継倫
所属機関 水産試験所 遠洋漁業グループ
連絡先 (20246)基隆市和一路199号
(はじめに)
市場では、日本や韓国から輸入された生牡蠣をよく見かけるが、その外形は大きく、かつては台湾で生産された牡蠣も同じ品種だと考えられていたため、ではなぜ台湾産は養殖しても大きくならないのか不思議だった。また、なぜ遠く何千キロも離れたポルトガルで、太平洋牡蠣と非常によく似た種類の牡蠣が生産されるのかも疑問だった。この2つの、まったく関わりないように見える事柄が、じつは互いに関連していたという答えがようやく見つかった。
牡蠣は世界的に最も重要な貝類の養殖水産物であり、FAO国連食糧農業機関の統計(1999)によれば、ヨーロッパで生産されるポルトガル牡蠣Crassostrea angulata (Lamarck, 1819)は、1905年にフランスで年間生産量10万トンを超える記録を作った。またアジアで生産される太平洋牡蠣C. gigas(Thunberg, 1793)は、1997年に中国大陸で年間生産量2.3万トンを超えた。
この地球の両端に位置している牡蠣は、外形が非常によく似ていて、見分けることが難しく、それらが同一種なのではないかという問題などに関して、種の名前をつける段階から論争が起き、長らく決着がつかず、しまいには台湾産の牡蠣がどの種に属するのかにまで議論が及んだ。そしてこれらの問題は、最近になって分子生物学のDNA解読技術を応用することでようやく決着がついた。
太平洋牡蠣は主に太平洋沿岸地域に分布し、1793年にサンドバーグが日本で採集した標本から命名した。成熟した固体の外形が巨大で、殻の高さが25cmを超えることから、種小名のgigasとは「巨大」を意味し、中国語でも「巨大牡蠣」と言う。その後1819年にラマルクがポルトガル南部のイベリア半島で、外観が太平洋牡蠣に非常によく似た別の種類の牡蠣を発見した。
しかし外形は比較すると小さく、殻の高さが10cmを超えるものはまれだった。その上、一方は太平洋に分布し、一方は大西洋に分布していて、当時の「種の地理的隔離」理論によれば、離れた2つの地域にある種は、その地理的隔たりによって遺伝子の交流が起こりにくいため、異なった種へと進化すると考えられ、これを新種として命名した。その種小名のラテン語angulatusは「矮小」という意味で、ポルトガルが原生地と考えられたので、俗称ではポルトガル牡蠣と呼ばれた。
しかしこの2種類の牡蠣には、外形の違い以外、識別するために有効となる外部的特徴がまったくない。そのためヨーロッパの分類学者たちは、この2種類の牡蠣は地域が異なるための同種異名なのか、それとも確かに別の種なのかといった問題について、多くの研究を行なってきた。ある学者は、幼生の殻の形態について詳細に比較したが、違いを見つけることはできず、同一種に属すべきものと考えた。
また雑種の作成実験から、交雑後の第一世代と第二世代がすべて順調に成長し交配できたことも、それらが同種であることを支持した。しかし一部の交雑現象は二枚貝の中では珍しくないことを指摘する学者が現れ、これ以降、同一種であるかどうかの議論は非常に慎重になってしまった。その一方で、両者の生殖的特徴に関する研究では、生殖周期、成熟期、水質条件等すべてに違いが見られた。また精子の超微構造の研究から多くの相違点が発見されたことも、この2種が独立した種であることを支持するものであった。
そうしたこととは別に、1868年にポルトガルの貨物船が、トラブルの発生によって積荷の牡蠣をフランスのジロンド付近の海岸に投げ捨ててしまい、これ以後、ポルトガル牡蠣が外来種としてフランス大西洋岸に大繁殖し、期せずして現地の牡蠣養殖業を発展させるということが起こった。しかし1967年から1972年にかけて、イリドウイルスの感染が広がり、その被害で現地の牡蠣が絶滅し、さらに被害はポルトガル本土にまで及んで、わずか5年の間にポルトガル牡蠣は絶滅危惧種として保護の対象となってしまった。
その間にフランスでは、牡蠣養殖業の復活を図るため、日本から太平洋牡蠣を導入したのだが、それがイリドウイルスに対する抵抗性を持っていたため、新しい牡蠣養殖の対象となった。このことで学者たちは、両者のイリドウイルスに対する抵抗性の明らかな違いから、ポルトガル牡蠣と太平洋牡蠣を同一種とすべきではないと考えるようになり、緊急の保護の必要性を認めた。
この論争は1998年以後、ミトコンドリアのチトクロム酸化酵素のDNA配列を利用して、ヨーロッパとアジアの牡蠣の品種研究を行なったことでついにその答えを出すことができた。まず、ポルトガル牡蠣と太平洋牡蠣は確実に異なる種である。そのDNA配列はそれぞれ独自に半数体の遺伝子型(haplotypes)を持ち、近縁種進化の分析では、両者のすべてのサンプルがはっきりと分かれ、混在することはなかった。
また、非常に近い関係にある同胞種が進化の過程で分化した年代は、百万年を超えないだろうと推測される。しかし最も意外だったのは、アジアに位置する台湾で生産しているのは太平洋牡蠣だと誰もが思っていたのに、そのDNA配列には、遠く何千キロも離れたポルトガルで生産するポルトガル牡蠣と違いがほとんどなかったことである! 水産試験所が2008年から始めた台湾沿岸海域での広範な採集調査でも、野性牡蠣、養殖牡蠣にかかわらずどのサンプルにも太平洋牡蠣がまったく見つからず、すべてがポルトガル牡蠣であり、その数量も非常に多いことが証明された。
このことで、現在の台湾の貝類調査リストに過去の識別の誤りからいまだに太平洋牡蠣と記録されているのを、新たにポルトガル牡蠣と書き直すべきだろう。そのほか、関連調査資料では、ポルトガル牡蠣はアジアでは金門島と福建省沿岸にわずかに分布するほかは、台湾だけに大量の種の集団が発見されたことを明らかにしている。
以上の研究結果により、過去にポルトガル牡蠣はポルトガルの原生種だとしていた見方は完全に覆された。かつてヨーロッパ水産養殖業界で重要な地位を占めていたポルトガル牡蠣は、その原生地はおそらく台湾だったのだろう。その進化の歴史は、ポルトガル牡蠣と太平洋牡蠣はアジアで共通の祖先を持ち、数十万年前に台湾において種として確立し、独立した種の牡蠣となったと推測される。
そしてその後、16世紀の大航海時代になり、1544年にヨーロッパが台湾を発見し通行を始めてから、200年の長きにわたってヨーロッパとアジアの海運貿易が盛んになり、期せずして台湾の牡蠣がポルトガルに持ち帰られ、それが自分の種を増やし、2世紀を経た後にラマルクによって名前を付けられたのである。これは人類の介入によって起こった種の移動であり、歴史的な記録はないものの、きわめて古くから広範囲にわたって海岸生物相の地理的分布を塗り替えていたことを証明している。
「正しい名前」は、すべての生命科学研究の第一歩であり、正確な種の分類によって私たちは、太平洋牡蠣の生態分布の南限を温帯の水温20度ラインまでとすべきであること、亜熱帯ではポルトガル牡蠣がそれに取って代わったこと、両者の生息する生態的環境は異なり、水温に対する要求も違うことを知ることができた。
それに私たちは、なぜ台湾で生産する牡蠣を、フランスや日本の「巨大牡蠣」のように大きな生牡蠣に育てることができないのか、それはすべて台湾産の牡蠣が実は「小牡蠣」であることに由来するのだということをはっきりさせることができた。その養殖の条件については、今後さらに研究と整理を進めなければならないだろう。
また、台湾がポルトガル牡蠣の重要な種の発生地であることに関して、関係機関が研究を強化し、育種と種の保存に関するシステムを確立して、養殖専業地域を監督し、海洋汚染や外来種の侵入を防ぎ、遺伝子多様性を保護すべきであろう。フランスのポルトガル牡蠣に発生したイリドウイルスによる絶滅のような事故の再発を防ぐため、今後、ヨーロッパから品種を導入しようとする養殖行為に対しては、すべて厳格な検疫と監督管理を行なってウイルスの進入を遮断することが必要であろう」
3.ポルトガルの主張
説得力のある論文である。
これが真実だとすると「ポルトガル牡蠣」は原産地詐称であり、出生地の変更を届けださねばいけないだろう。本籍地を変え「正しい名前」に「認知変更」することが必要になる。
では、台湾の主張に対し、ポルトガルではどう認識しているのか。それを調べるため基隆で蕭聖代女史に会った翌月の2011年2月にポルトガル・リスボンに向かった。リスボンでお会いしたのは水産研究所のフランシスコ・ルアノFRANCISCO RUANO氏である。ホテルのロビーでお会いすると、本人が「私は東京大学でうなぎ稚魚の研究し、現在、息子も東京大学で水産博士とるために勉強中です」と語り、昔は獣医しており、その後貝類の病理学専門家となったとも話してくれる。
翌日の9時にフランシスコ氏がホテルに来てくれ、車でポルトガル牡蠣が生息している海域に向かった。車中で解説してくれる。ローマ時代はサド川SADOでは牡蠣だらけという記録があるが、30年前でもポルトガル牡蠣が多く獲れた。その当時は天然牡蠣が自然に生息していた。
その後公害で絶滅されたと思っていたがサド川とミラ川MIRAで生息している事が分かった。サド川に比べてミラ川は素晴らしくきれいな水だと強調する。ポルトガルで一番だと。サド川は、南部ポルトガルを流れる主要河川のひとつである。北方向へ流れるポルトガルの唯一の川で、カルディランの丘陵地からおよそ175km流れ、セトゥーバルの三角江を経て大西洋に注ぐ。
サド川は、主に米、トウモロコシや野菜の灌漑のために、いくつかの場所で堰き止められている。河口付近ではアルカセル・ド・サルの都市を横切る。河口は、バンドウイルカの大きな集団の生息地となっている。マガキはフランスの養殖業者がアルガルヴェ、ここはポルトガルの最南端地区であるが、そこで養殖をしている。
さて、台湾が主張するポルトガル牡蠣は台湾海域が原産地であるということについては、当然に知っているが、次のように反論し主張する。大航海時代、台湾からポルトガルへの直行船便はない。必ずどこかいくつか寄港する。それらの各地域港で牡蠣が船底に付いたし、また、その各々地域の港で牡蠣は船底から落ちたはずだ。
したがって、台湾牡蠣がポルトガル船底に付いて航行したとしても、台湾の牡蠣がポルトガルだけに生息したという説には疑問を持たざるを得ない。確かにスエズ運河は1869年11月開通であるから、大航海時代のポルトガル船は、インド洋、喜望峰を回ってアジアと行き来している。
したがって、牡蠣が船底に付いたとしても、各海域で水温の変化もあり時間もかかっているので、途中の海域で牡蠣が落体する可能性は高く、フランシスコ氏の主張も頷ける。さらに、DNA調査については、一部の遺伝子が同じだと判断しているのではないかと疑問を出す。全部一致しないと明確に言えないのではないかという。これにもなるほどと思う。
それと先史時代のグリフェア牡蠣GRYPHAEAが化石で発見されている。ポルトガルには地の牡蠣があったのだ。この資料をコピーしてくれたので、訳してみると次のように書かれている。
(アメリカ合衆国内務省「魚類および野生生物部局による水産業報告書」ポール・ガルツオフ著By Paul S. Galtsoff 1961)
「動物命名法国際審議会の決定においては質疑が提示された。グリフェア Gryphaeaという名称の存続とギーナス アンギュラテgenus Angulateがgenus Gryphaeaの一種であるという呼称は欧州動物命名法国際審議会において多数決で採決された」
このような記述をもって「ポルトガル牡蠣」原産地がポルトガルであるという見解を強調する。このような説明と反論を受けながら、セトゥーバルへ向かう。35分でサド川べりに着き、電話すると一人の漁師が歩いてくる。エマニエルさんといい、この地で7歳から漁業していて、地元のギリシャ正教会の牧師でもある大男。
サド川には10軒の養殖業者が現在いる。1970年代は1万tの牡蠣が獲れ、当時は一万人から五千人が働いていた。今はたったの200トンに落ちた。ポルトガル全体では1000トン程度。南地区が80%、サド地区SADOは10%。ホルトガル牡蠣は成長が遅いのが特徴。
フランシスコ氏の説明が船の中でも続く。マガキとポルトガルとの区別がつかなく、その理由は「全く似ている」というシンプルなもの。見た目には分からないという意味である。確かにポルトガル牡蠣を手に取ってみてもマガキと形が同じで、中身も同じように感じる。但し、川の中で開けた一年物は緑色になっている。これは銅を飲みこむとこの色になるという。この牡蠣を養殖場に持ってきて育てると色は消える。4日間の浄水をしてから市場に出荷する。
川の向こうは塩田跡で、海辺にオークの木がある。(左写真)
この木の皮がコルクとなるが、オークの木は7年ごとに皮を剥くという。
この川の干満差は5m。今は10時30分、引潮に入っている。牡蠣は全部フランスに輸出しているが、輸出先にはポルトガル牡蠣とは言わないのだろうと推察する。
したがって、ポルトガル牡蠣はヨーロッパでは絶滅したと思われているが、実はサド川では生存しているのだ。
また、ポルトガル人は牡蠣を殆ど食べないが、食べる場合は料理して食べ、生で食するのは少ないという。
これはリスボンに戻り、海洋研究所の駅近くのレストランを三か所回ったが、一か所しか生牡蠣をおいていない実態を見ると、その通りだろうと納得する。
ところで、ポルトガル人の食べる魚ベストスリーは①タラ②鰯③サバ。魚は輸入が多い。貝類ではハマグリ、ムール貝の生産が多い。サド川は30km遡った地点まで潮が入ってくる。川幅は広い。1km以上ある感じ。
大雨が降って塩分は1%から2%でも牡蠣は生きる。抵抗力があるから。マガキは海に近くないと育たないはずだが、この川の上流で天然牡蠣が育っている。
ここがマガキとポルトガル牡蠣の違いなのかと思うが、ポルトガル牡蠣は殻と身の間に幕をつくって水を貯めこむともいう。
それにしても船は走り続ける。もう2時間だ。ようやく着いたところ、ここが天然牡蠣の生息している川底だと指さす。稚貝と一年物と1年6か月の牡蠣がいるという。ここの天然牡蠣を採り、河口のところで地巻きで育てる。網には入れない。
このような説明を聞いていると、ポルトガル牡蠣はポルトガルが原産国であると思えてくる。
ここで日本の牡蠣研究家によるポルトガル牡蠣調査結果を見てみたい。
東北大学農学部水産増殖学研究室・成瀬了三、菅原義雄氏の「ポルトガルガキ、Crassostrea angulata (Lamarck)、の受精卵における染色体の行動」(医学と生物学・第93巻・第2号・1976年8月10日)である。
ここで「結語」として以下のように述べている。
1. C. angulataの受精卵を用い、分裂過程での染色体の行動を把握し、他のカキと同様、n=10、2n=20であることを確認した。
2. 染色体の行動および形態より、本種はC.gigasとかなりの程度近縁であると推定した。
この東北大学資料によると、マガキとポルトガル牡蠣はかなりの近縁ということであるから、フランシスコ氏が語ったマガキとポルトガル「全く似ている」ということを裏付けている。染色体検査でも近縁なのであるから、見た目には分からないというのは当然なのだろう。
4.大航海時代とは
①大航海時代の理解
蕭聖代女史の論文に「16世紀の大航海時代になり、1544年にヨーロッパが台湾を発見し通行を始めてから、200年の長きにわたってヨーロッパとアジアの海運貿易が盛んになり、期せずして台湾の牡蠣がポルトガルに持ち帰られ、それが自分の種を増やし、2世紀を経た後にラマルクによって名前を付けられたのである」とある。
この中の大航海時代についてある程度触れておかないと、ポルトガルと台湾の関係が見えてこないので、整理して振り返ってみたい。(参照『大航海時代』福武書店、サイト『世界史講義録』)
スペイン、ポルトガルをはじめとする西欧の国々が、大西洋やインド洋に進出していった時代を大航海時代という。15世紀の末から16世紀のはじめまで、ヨーロッパ人が世界に拡大していく最初である。
大航海時代が始まった理由を探るには、スペインやポルトガルがどういう国だったかということを考えることが必要である。この二カ国は当時出来たてほやほやの国だった。両国があるイベリア半島は8世紀初め以来イスラム勢力の支配下にあり、フランスとの国境地帯に住むキリスト教徒の領主たちが少しずつイスラム勢力から領土を奪い取っていった。これをレコンキスタ、再征服運動といい、この戦いで生まれたのがポルトガルとスペインである。
イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ王国がスペインによって滅亡したのが1492年、コロンブスがスペインの援助でアメリカに到達したのが同じ年で、イスラム教徒と戦争しながら大航海を援助していたわけで、この時期のスペイン、ポルトガルは猛烈な領土拡大意欲を持っていた。
もうひとつは、イスラム教徒と戦うなかで養われた、キリスト教を広げようという宗教的な熱意も背景にあった。
さらに、この両国は王室の権力強化のために財源を求め、海に囲まれたイベリア半島のため、海上貿易に目を付けた。当時一番儲かるのが香辛料貿易で、香辛料は軽くて輸送しやすいうえ高価で取引された。当時のヨーロッパでは同じ重さの銀と交換されたというから超高級品で、人気商品でよく売れた。このころヨーロッパ人は香辛料なしではすまない食生活になっていた。
その理由は、ヨーロッパは緯度が高く、寒冷な地域でもともと農業生産にあまり向いているところではなかった。だから、小麦などの穀物栽培以外に豚や牛などの家畜も多く飼っている。これらの家畜はだいたい、森や休耕地で放し飼いし、肥えた秋に屠殺する。肉は干し肉、薫製など保存のために加工するが、多くは塩漬けにして樽の中につけておく。これを少しずつ長い冬の間に食べつなぐ。いくら冬は寒いと入っても、肉は傷んで、腐りかけた肉を食べることになる。これが臭い。しかし、我慢して食べていた。
十字軍などをきっかけに東方の産物である胡椒をヨーロッパ人は知って、これを腐りかけた肉にかければ臭みが見事に消える。一度胡椒の味を知ると、胡椒なしではすまないようになった。この香辛料はどこで生産されていたのか。胡椒はインド西海岸のマラバール海岸や、ジャワ、スマトラ、マライ半島で作られていた。クローヴ(ちょうじ)、ナツメグはインドネシアのモルッカ諸島周辺でしか栽培されていなかった。
いずれにしても、ヨーロッパからは遙かに遠いアジアで、香辛料はインド商人、アラビア商人、そして、イタリア商人と多くの仲買人を経て運ばれるから、ヨーロッパでの末端価格は驚くほど高くなってしまう。ポルトガル、スペインが香辛料貿易をおこなおうとしたときには地中海交易はイタリア商人に独占されていたので、別の直接インドまで行くルートを探さねばならない。
ちょうどこの時期に羅針盤の改良が行われ、地球球体説もとなえられるようになり、遠洋航海への技術的な裏付けも整ってきた。マルコ=ポーロの「東方見聞録」が大いに読まれてアジアへの関心高まりと、インドとの直接貿易の欲望が相まって大航海時代が幕開けした。
大航海時代のさきがけとなった人物はポルトガルのエンリケ航海王子(1394~1460)。ヨーロッパ中から腕利きの船乗りを集めてアフリカ沿岸の探検航海を指揮したが、実は航海王子と呼ばれたが、本人は船には乗らなかったという。上左写真はカルベラ船の先頭に立つ王子で1960年に王子500回忌を記念して造られた。このモニュメントの下に日本地図と共に1541年と記されている。(上右写真) これは大分県豊後にポルトガル船が到着した年という。
エンリケ航海王子の時代は、実はまだ船で直接インドに行けるとは考えられていなかった。エンリケ時代に信じられていたプトレマイオス世界地図(左図: 2世紀のローマ帝国で既知となっていた世界を表した地図)を見ると、ヨーロッパの海岸線、アフリカ北岸、アラビア半島もそれなりの形をしているが、ペルシア湾より東は明らかに想像で書いている。一番東は中国で、アフリカが東に湾曲して中国の南に接続している。
さらに、インド洋は完全に閉じた海として描かれている。もし、実際このような地形ならいくら航路を開拓してもインドには絶対に行けない。これが、エンリケ航海王子時代の常識であった。ならばエンリケはなんのために探検航海を指揮したのか。意識としては、レコンキスタの延長で、アフリカにあるイスラム教徒の拠点を攻撃しようとしたのが最初の動機で、さらに、単純にアフリカ西海岸を探求したかったということもあった。
しかし、これが後のインド航路開拓への基礎づくりになる。エンリケ時代の探検航海は今の常識からすると実にゆっくりとしか進まない。たとえば北緯26度にボジャドール岬があるが、ここを超えるのに12年もかかっている。
時間がかかった理由の一つは船乗りたちが怖れたこと。
ボジャドール岬まで来ると赤道も近い。どんどん熱くなる。それ以上南下すると、海は煮え立っていて、船も人も一瞬にして燃え尽きてしまう、と信じられていた。その証拠にここまでくると沿岸の人々はみんな真っ黒な皮膚をしているではないかという。こういう船乗りたちを脅したり励ましたりしながら航海する時代だった。
もう一つは当時の航法にある。当時はまだ近海航法だった。簡単にいえば常に陸地が見えるところを航海する方法。陸地が見えなくなると不安になる。嵐にもまれて沿岸から流され、悪天候が続いて星も見えない日が続くと港に帰れるのかパニックになってしまう。だから、陸地沿いを行く。
ところがこの航法は案外危険である。陸地が見えるということは水深が浅い。沿岸には島も暗礁もたくさんある。つまり、座礁して沈没してしまう可能性が結構高い。座礁の危険があるのなら遠洋に出てグルッと遠回りに迂回すればよいが、それがなかなかできなかった時代であった。
やがて、遠海航法が確立されて、船乗りたちはコンパスを見ながら大胆に沖合を航海するようになった。これは、まず何百キロも西へ直進する。十分沖合いに出たら今度は進路を真南に変えて直進、予定の距離を進んだら今度は西へ向かって直進する。この間コンパスで常に方位を確認していく。遠回りのようだが、沿岸の水深を探りながら進むよりもよほど早く目標まで到達できた。
エンリケ航海王子が死んだあともポルトガルはアフリカ沿岸探検を続けた。また、アラビア半島など陸上ルートの探索からインド洋は閉じた海でなく、大西洋とつながっているらしいことがわかる。こうなると、インド航路が実現可能になり、まずは、アフリカの南端を確認しなければインド洋に入れないということから、南端探しが航海者の目標になる。
1488年、アフリカ南端に最初に到達したのがバルトロメウ=ディアス。ディアスはアフリカ沿岸を南下していて嵐に巻き込まれ、13日間漂流して嵐が収まってみると、船は東に向かって走っていることに気づく。アフリカ大陸であれば東に進めばぶつかるはずだが、ここでディアスは考え北上して行くとアフリカ東海岸があった。嵐にもまれているうちにアフリカ大陸の南端をまわっていたのだ。
ディアスはこのままインドまで行きたかったが、船員が抵抗した。わけのわからないところへ行きたくない、命のあるうちに帰りたいというわけ。仕方なく多数決をしたらディアス以外全員帰還を希望したので引き返すことになった。帰りの航海で、はじめてアフリカ南端を確認できた。それでアフリカ南端の岬に付けられた名前が「嵐の岬」。
ポルトガルに帰還したディアスは熱狂的な歓迎を受け、宮廷で航海報告を行って、この席にはコロンブスもいたとのことだが、「嵐の岬」はのちにポルトガル王によって「希望の岬」と改名された。今の喜望峰である。ポルトガルが実際にインドに到達するのは、この10年後。1498年、インド航路を開拓したのがヴァスコ・ダ・ガマ。ガマの船が到達したのがインドの西海岸の港町カリカット。
実はガマは、喜望峰をまわったのち、アフリカの東海岸で港を立ち寄った。アフリカの東海岸はインド洋を囲む商業圏の一部で、イスラム商人やインド商人がいて貿易をしている。ガマはそんなイスラム商人をアフリカ東海岸で雇い入れ、水先案内人としてインドに向かった。
カリカットに到達すると、思ったとおり街には香辛料があふれている。これを仕入れてヨーロッパにもって帰れば大もうけ間違いない。ガマは早速、カリカットの太守に挨拶に行った。宮殿に行くと、太守は金や宝石をちりばめた天蓋つきのソファに寝そべって、ビンロウジの実をつまんでは種を金の杯にペッペッと吐いている。ガマが見たこともないような贅沢な暮らしをしている。ポルトガルとインドの圧倒的な富の差を見せつけられることになった。
太守が「何の用か?」と聞くと、ガマは「自分はポルトガルの大王から使わされた使節である。ポルトガルは偉大で豊かな国である、キリスト教の王を探しに来たのであって金銀が目的ではありません。でもついでに、貿易も許されたい。親善のしるしにポルトガル王より閣下にお土産もございます。」と述べた。
太守は、「そのお土産とかを持って参れ。」と、楽しみに身を乗り出すのですが、運ばれてきたのがポルトガルの民芸品や毛皮、毛織物、雑貨品程度のもの。太守は、この程度のものはそこいらの田舎商人でも持ってくるわ、と非常に不機嫌になったという。ヨーロッパとインドの経済力の差があったわけ。
それでも、貿易は許されて、ガマの一行は、ポルトガルから運んできたヨーロッパの商品を何とか売りさばいて、香辛料を買い付けた。ただし、ガマたちの商品はインドではたいした値打ちはないので、散々に買い叩かれてわずかな香辛料しか買えなかったという。
ところが、ポルトガルに帰還するとカリカットで仕入れた香辛料は60倍の値段で売れて大儲けした。以後、ポルトガル政府は次々と貿易船をインドに送り莫大な利益を得ることになる。この当時、インドまでの往復は困難を極めた。ガマがリスボンを出港したときは170名の船員だったが、帰ってきた時は44名。ビタミンC不足で起きる壊血病で亡くなっている。長い航海で船員たちは新鮮な野菜や果物を食べられない。関節が膨張し歯茎から血が流れ出して止まらなく、やがて死ぬ。大航海時代の船員たちにはつきものの病気だった。
こんなに死亡率の高い航海に参加する理由は何かというと、無事に帰ったときの報酬の大きさである。一攫千金を夢見る連中が海に出て行った。1502年、ガマは二度目のインド航海に出発した。このときは、まともな商売をしていては大量の香辛料を買い付けることはできないと、15隻の大船団を組んでインドに到着すると、沿岸で見つけた船を焼いて乗客を虐殺し、カリカットの街に大砲を撃ち込み、住民を船に吊るし、その手足を切り取って、太守に送りつける。そういう恫喝をして香辛料を手に入れた。ヨーロッパとアジアのゆがんだ関係がこのときから始まったといえる。
このようにポルトガルの大航海時代が始まり、1509年にはマレー半島のマラッカへ、1513年に中国へ、1512年にインドネシアのモルッカ諸島、そして日本には1543年(天文12年)に到達した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。
一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。
1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国(明)・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになり、織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れるようになった。
徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣した。
また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康はキリスト教を禁止していたが、貿易は推奨されていた。
しかし、その後の江戸幕府は禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになり、交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。
②ポルトガル船底に台湾牡蠣付着の検討
さて、台湾とポルトガルはどういう経緯で関係が発生したか。これがなかなか明確となる資料は見つからない。
一般的に語られているストーリーは「台湾付近の海域を航行中の船員が、緑したたる美しい島影を目のあたりにして、「Ilha Formosa!(イラ・フォルモサ!)」と感嘆の声をあげたことに始まる」といい、ポルトガル船の種子島到着の翌年、つまり1544年のことと推定されている。これが蕭聖代女史論文の「16世紀の大航海時代になり、1544年にヨーロッパが台湾を発見」という記述につながる。
Ilhaとは島、Formosa とは麗しいという意味で、すなわち「麗しき島」となる。もっともポルトガル人は、航海の先々で美しい島を見るたびに、「イラ・フォルモサ!」と賞賛して、その島の名としてきたので、アフリカ、南アメリカ、アジアの各地には10を越す、この名の島があったとされるが、今日ではフォルモサは台湾をさす固有名詞となっており、とくに欧米諸国では台湾を Taiwan ではなく、フォルモサFormosaと呼ぶこともしばしばである。
さて、牡蠣がポルトガル船底に付いたとすると、蕭聖代女史の論文に「ポルトガル牡蠣はアジアでは金門島と福建省沿岸にわずかに分布するほかは、台湾だけに大量の種の集団が発見された」とあるので、台湾にポルトガル船が停泊していれば船底に牡蠣がつく可能性は高い。
しかし、台湾の歴史にはオランダとスペインが上陸したことはあってもポルトガルの名は無い。
ポルトガルがマカオに要塞を築いたのは1577年、スペインのマニラ建市は1571年、オランダ人はこれより少し遅れ、ジャワ島のバタビアに東インド会社を設立したのが1602年、その後、徳川幕府と交渉、平戸に商館を開設したのが1609年(慶長14年)である。
オランダ人が台湾に上陸したのは、平戸商館開設より13年後の1622年、17隻からなる大艦隊を擁して台湾の澎湖島に来た。この時の中国は明朝、1624年に明朝政府が島に兵を入れ、交戦8か月でオランダに勝利し、オランダ人を澎湖島から撤退させたが、この際の条件が「明朝政府はオランダ人が台湾本島を占拠することに異議を唱えない」というもの。これは台湾を大陸の域外としてとらえていたからだという。この結果、1624年からオランダによる台湾支配が始まった。
スペインが台湾に入ったのは1626年である。北の基隆に入り湾口に城を築き、勢力を増してオランダの権益を侵すまでなって、1642年に両国は戦いを交え、オランダが勝利しスペインは台湾から退去した。このように台湾本島にはポルトガル船が寄港したという資料は見つけられなかったが、蕭聖代女史の論文に「ポルトガル牡蠣はアジアでは金門島と福建省沿岸にわずかに分布する」とあるので、中国本土に立寄った際に船底に付いたのではとの推測も可能である。
だが、この大航海時代ではなく、もっと早い時代に中国を訪れた人物によって、船底に牡蠣がつく可能性があったとも考えられる。それはマルコ・ポーロである。マルコ・ポーロ(伊: Marco Polo、1254年~ 1324年)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Divisement dou monde)』)を口述した冒険家である。
このマルコ・ポーロは、1274年から1290年まで役人としてモンゴル帝国のフビライ・ハーンに仕えて、イル・ハーン国(モンゴル帝国の一部)の使節が帰国するのに随行して、中国泉州から船に乗りペルシア湾のホルムスに向かった。(左図は『大航海時代』福武書店から引用)
この当時、陸上の「シルクロード」や「毛皮と黄金の道」と並んで、海上にも東西を結ぶ交通路があった。それは泉州、広州など中国の港を出発し、南シナ海を南下し、マラッカ海峡を経てベンガル湾に入り、インドの各地に港に立寄り、アラビア海を抜け、やがて終点であるスエズ海峡やペルシアやアフリカ大陸の港に達する海上交通路である。
この交通路が利用されるようになったのは、紀元前2世紀のころであったらしく、それは季節風の発見によってはじめて可能になったのである。このような海上交通路があったのであるから、福建省の泉州あたりに停泊した際に台湾牡蠣が船底に付いた可能性も考えられる。
しかし、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394~1460)の時代にポルトガルの大航海時代が始まったのであるから、マルコ・ポーロが海路で戻って来たタイミングとは合わない。
仮説として、マルコ・ポーロが利用した船底に牡蠣が付き、それが帰りの港に落ちて、それから100年以上経過した大航海時代に、ポルトガル船の船底に付着したという可能性も考えられなくはないが、これはかなり無理筋のストーリーであろう。
となるとポルトガル船が中国本土に立寄った際、泉州あたりで付着したと考えることが妥当だろうが、それは可能性としての推測にすぎない。もうひとつ考えられるのはオランダである。オランダが台湾を支配したのであるから、台湾からオランダへ戻る際に船底に牡蠣が付着したことは容易に推測できる。また、スペインも同時期に台湾に駐留したわけで、スペインはポルトガルの隣国であるから、何かの機会にポルトガルの港に立寄ったかもしれないが、これも可能性としての推測になる。
ということで、蕭聖代女史の論文「16世紀の大航海時代になり、1544年にヨーロッパが台湾を発見し通行を始めてから、200年の長きにわたってヨーロッパとアジアの海運貿易が盛んになり、期せずして台湾の牡蠣がポルトガルに持ち帰られ、それが自分の種を増やし、2世紀を経た後にラマルクによって名前を付けられたのである」という見解を証拠立てる資料は無いわけで、ポルトガル牡蠣が台湾生まれであるというのは、DNA鑑定でしか言えないことになる。
③再び台湾へ
ここまで検討し、もう一度蕭聖代女史に会いに行ったのが2012年1月。再び基隆の行政院農業委員会水産試験所の会議室に入って蕭聖代女史にいくつか質問した。
① 台湾の牡蠣がポルトガルへ渡った記録はあるのか
⇒それはない。しかし16世紀の大航海時代にポルトガルがこの地に来ているのは間違いないので、帰りの船底に付いて行ったと考えている。
② バラスト水についてどう考えるか。(注 バラスト水Ballast Waterとは、船舶のバラスト(ballast:底荷、船底に積む重し)として用いられる水のこと。貨物を無積載で出港するとき、その出港地で港の海水などをバラストタンクに積み込み、船の重心が上がり、復原性が低下(転覆し易い)し、喫水が下がる(浮いてしまう)ため、横波や横風に対して不安定になるのを防ぎ、外力に対する応力強度を高めるためのもの)
バラスト水としてポルトガルの港から海水を積み込む際、牡蠣が入っていて、それが台湾海域で排水されて育ったのではないか。
⇒それは分かる。但し、台湾から帰りにも海水を入れて行ったのではないか。
③ 台湾からポルトガルに船で行くにはインド洋・赤道直下を通るので牡蠣は死んでしまうのでは
⇒その可能性はあるが、たくさんの船が来ているので渡ったと推測する。また、牡蠣は熱さに強い。インドネシアやマレーシアにも牡蠣はあるので。
その証明資料として「第4回インターナショナル牡蠣シンポジウム」の資料、そこに掲載されているインドネシア・バリ島の牡蠣情報を提示する。
④ ポルトガル側資料には2000年前の記録に、リスボン川に牡蠣が生存しているとの記録がある.
⇒それも分かるが、台湾にはそのような古い歴史記録はないので何とも言えない。
⑤ 以上の研究結果により、過去にポルトガル牡蠣はポルトガルの原生種だとしていた見方は完全に覆された。という主張は言い過ぎではないか。
⇒そうかもしれないが、この課題はポルトガルの関係者と台湾の関係者で話し合う事が必要だと思う。
この発言になるほどと思う。問題当事者同士の両国が、それぞれ資料を出し合って議論することが妥当な解決手段であり、台湾が求める「正しい名前にする」ということへの道筋ではないかと頷く。
5.牡蠣業界での現状コンセンサス
①.仏貝養殖委員会CNCの結論
ここまで検討してきたが、実はフランス牡蠣業界では、ポルトガル牡蠣は台湾が原産地であると既に認識している。2005年7月に東京で開催された財団法人かき研究所主催の「第一回インターナショナル牡蠣シンポジウム」でフランスが資料として発表したのが下図である。
上図青矢印のC. angulataポルトガル牡蠣は、明らかに台湾からポルトガルへと示されている。年代は不明と記されている。この図が掲載された資料は仏貝養殖委員会CNC(COMITE DE LA CONCHVLICUTURE)へ2010年10月に訪問した際入手したものである。
この図と共にいくつかコメントが資料として書かれているので、その訳文を紹介する。
(タイトル)
「ポルトガルオイスター(Crassostrea angulata)の分類学的位置とその起源(ラマルク、1819))
(分類学的位置)
ポルトガルオイスター(Crassostrea angulata) とパシフィックオイスター(Crassostrea gigas)の分類学的位置は論争の的となっている。牡蠣の幼生殻の形態学、実験的ハイブリッド形成法、酵素多型の電気泳動学の見地から見て、これらの二種は同種とみなす学者もいる。
(系統学的分析と地理的起源)
近年、ミトコンドリアDNAとマイクロサテライトのデータに基づく研究により、これらの二つの分類群は関連性さえあるものの、遺伝学的に別個のものであるという多くの証拠が発見された。系統学的分析によると、ポルトガルオイスターとパシフィックオイスターは両方ともアジアのマガキ属であるとし、アジアからヨーロッパへC. angulataが導入されたという説をサポートする。C. angulataの多くの個体は台湾でも発見され、C. angulataとC. gigasの混合種個体群は中国北部でも確認されている。
(遺伝的変異性)
RFLPミトコンドリア・シトクロムオキシダーゼC サブユニットIハプロタイプに基づいた研究によると、 世界各地で収集されたC. gigasのサンプルは、 ポルトガル国内で収集されたC. angulata よりも遺伝的変異性が低いと見られている。この差異はC. gigasが宮城県から日本の他地域、更には世界の他地域へ散布し、パシフィックオイスターが世界で普及したことにも関連しているかもしれない。
(細胞遺伝学分析)
横縞模様の制限酵素比較分析では、 C. angulataとC. gigasの染色体は10を除く全染色体が異なることを発見した。
(結論と展望)
これら研究により以下のことが推測される。(1)C. angulataとC. gigasは遺伝学的に関連性は深いものの、異なる種である。(2)C. angulataはアジアを起源とする。C. angulataに 遺伝的変異性の高さが観測されたことにより、牡蠣養殖業界の発展に役立つ保護・繁殖プログラムの開発の展望が広がった。
したがって、2009年11月に台北で開催された「第三回インターナショナル牡蠣シンポジウム」で蕭聖代女史が発表した論文は、東京開催の2005年7月の「第一回シンポジウム」の内容を受けて発表したものと推定できるし、蕭聖代女史が述べているように「1998年に学会誌のレポートで台湾の牡蠣はホルトガル牡蠣だという資料が発表され、学名Crassostrea angulataであることがわかった」のであるから、当然の主張ともいえる。
そこで1998年の論文を、ここで見てみたい。
Marine Biology(1998)131:497-503
D.Ó Foighil・P.M.Gaffney・A.E.Wilbur・T.J.Hilbish
「ミトコンドリア・シトクロムオキシダーゼ l 遺伝子配列は、ポルトガルオイスター(Crassostrea angulata)のアジア起源説を支持する)
(要約)
ポルトガルオイスター(Crassostrea angulata)は長い間、大西洋北東部を起源とするとみなされていた。しかしながら、現在 それはアジアのパシフィックオイスター(Crassostrea gigas)と同一或いは深い関連がある種であるという多くの証拠が提示されている。
このような隔離分布する二種の牡蠣がいかにして関連するのかを説明する三つの仮説がある:古代の分断分布、近年のアジアへの人為的輸入、近年のヨーロッパへの人為的輸入である。我々は 、シトクロムオキシダーゼIの 579- ヌクレオチド断片のミトコンドリアDNA配列データに基づいてC. angulataの分子系統学分析を行った。
その結果は、ポルトガルオイスターのハプロタイプ はアジア系同属種内に集中しその関連深さを示しているものの、日本のC. gigasと同一種ではないというものだった。ミトコンドリアのデータによると、幾つかの地域で採集された日本のパシフィックオイスターのサンプルとポルトガルオイスターは遺伝子学的には別個のものであることがすぐに判明した。我々の系統発生学的分析も、近年C. angulataが日本以外のアジアの個体群によって、或いは後に日本の個体群が移動させられヨーロッパに輸入されたこという説と一致している。
(序章)
我々のミトコンドリアDNA配列データに基づいたC. angulataの統計学分析をここで提示しよう。
その目的はC. angulataは近年日本のC. gigasから分離したという推測を日本の代表的四地域(北海道、宮城、広島、九州)のサンプルを使用してテストすることである。
この結果、ポルトガルオイスターはアジアの牡蠣と同属であり、深い関連性があることを示したが、現在の日本のC. gigasとは同一のものではないことが判明した。
C. angulataを発生させたアジアの牡蠣の祖先は日本国内で移動したか、アジアの他地域、恐らくは台湾へ移動したのであろう。
以上のように1998年の論文でも
●要約で「近年C. angulataが日本以外のアジアの個体群によって、ヨーロッパに輸入されたこという説と一致している」
●序章で「C. angulataを発生させたアジアの牡蠣の祖先は日本国内で移動したか、アジアの他地域、恐らくは台湾へ移動したのであろう」
と台湾の関与を認めている。
6.国籍変更への方法
以上の経緯からポルトガル側の言い分もわかるが、一般の牡蠣業界としてはDNA鑑定結果を受け入れ、台湾がポルトガル牡蠣の原産国であると認識している。つまり、「認知」しているわけであるから、「認知」から「国籍」変更へつなげる方法を考えなければいけないだろう。
「必ずや名を正さんか」と蕭聖代女史論文タイトルにあるように、世界中に「ポルトガル牡蠣」⇒「台湾牡蠣」へ名称変更した旨、その経緯を含め通達しないといけないだろうが、そのためには台湾がポルトガルと対話することが必要と考える。
どこかの有力な機関、または誰かが仲介者となって「ポルトガルと台湾の関係者を集めて議論」することで、お互いが納得し合って、その結果としての「国籍」変更を「認知」したと世界中に伝えることが望ましい。
その仲介者となるべき存在が、この牡蠣面白物語「ポルトガル牡蠣の国籍変更をどのように?」を読み、納得し、手を上げられることを願っている。